朝起きると、すでに永原さんは仕事から戻っていて、そしてみどりさんがこれから職場に向かうところだった。お二人は新婚だが、仕事の都合で一緒に過ごす時間は少ないという。だけど、来年からはずっと一緒にいられるねえ、永原さん。
最終日も青空が広がっていた。考えてみれば、モンゴルを出てから一度も雨に降られていない。それまでは「これでもか」というくらい降られていたので、これでチャラになった感じだ。だけど、何事も終わりがいいというのは、いいなあ。
永原さんと記念撮影してから出発する。また来月あたり、キャンプで会えるだろう。
八ヶ岳を右手に見ながら、国道141号線を南下する。途中、温泉宿が無数にあって寄りたい気もするが、青空の下をトコトコ走っていると、このまま家に帰りたい気持ちの方が強くなった。なんか、「ゴール日和」という感じがするのだ。昨日もあんまり眠っていないので眠いし・・・。
韮崎で中央自動車道にぶつかるが、海外の感覚だと日本の高速道路料金はもうべらぼうに高い。しかもバイクは軽自動車と同じ料金のうえ、二人乗りもできないのだ。軽自動車よりはるかに道路に与える影響は少ないのに、料金は同じで、しかも軽自動車は4人で料金を割れるのに、バイクは2等分することも許されない。こんなバカな話ってあるか?日本道路公団は、この一点に限ってもまともな理由を言えるのだろうか?
そんなわけで、別に急ぐ理由もないので20号で東に進む。道は意外と空いていて、ちょうどいいペースで走れる。今のDRの状態じゃ、高速に乗ったって大して飛ばせやしないのだ。
相模湖で右に折れ、津久井湖を経て国道16号へ。ここまで来ると、まわりは見慣れた景色ばかりだ。
246号にぶつかってあと少し、というところでいきなりガソリンが切れた。相模湖のあたりでリザーブ・タンクに切り替わったのだが、家までは帰れるだろうとタカをくくっていたのだ。しかし、日本の道路事情が燃費に与える影響は予想よりも大きかった。
エンジンが止まったのは長津田付近、時速80キロくらいで長い坂を下っている最中だった。惰性で行ける所まで行こうとそのまま進んでいくと、何と坂の下にガソリンスタンドがあった。結局、押す事もなく給油機の前にバイクをつけられた。最後の最後まで、なんてラッキーなんだろう・・・。
そして青葉台で246を降り、環状4号線へ。いつものカーブを曲がり、交差点をホイと抜けると、友達が「サイコロハウス」と呼ぶ、わが青山家が見えた。
階段の下にバイクを停め、父と母に迎えられて家に入る。ふえー、疲れたなあ。あっ、テレビ、テレビ・・・拉致問題で騒いでいるなあ・・・。
はあ、今回のツーリングも楽しかったなあ。ちょっと疲れたけど、めでたし、めでたし。
・・・・・・・・・・??
違う違う!違〜う!なんだ、なんなんだ、この日常的な感覚は。まるで国内ツーリングから帰ってきたみたいじゃないか!
僕は実家にたどり着くとき、きっと感動に打ちひしがれるのだろうと思っていた。頭の中でファンファーレが鳴り響き、ロッキーのテーマが流れ、僕は涙を流しながらモンゴル相撲の勝利の舞いでもやりたくなるのだと思っていた。
しかし・・・正直いうと、旅をしていた、あるいは旅が終わった、という感じが全くしない。したがって、達成感もゼロなのだ。
ここで重大発表です。
今まで僕の嘘に付き合ってくれてありがとう。
僕は本当は、ずっと日本にいました。
日記はすべてフィクションで、写真はすべて合成です。
・・・おいおい!読者のみなさん、本気にしないで。嘘ですよ、嘘、ちゃんと行ってたって。ただ、まるでそんなことを書きたくなるくらい、ゴールした実感がないのだ。
ミハエル・ショロホフ号から日本の地を見たときも、それを踏んだときも「違う」と思った。きっと横浜に着いたときがゴールなのだろうと思っていたが、それも違うとなると、ううむ・・・?
僕は、ずっと前からこの日記の締めくくりはどうなるのか考えていた。理想としては・・・
港で船を降り、日本の土の感触を確かめていると、人の影が僕に落ちた。顔を上げると、懐かしい笑顔があった。旅先で出会った、あの娘だった。
「バカだな、わざわざ来る事ないのに」
「HPを見て今日の船だっていうから・・・そうそう、こんなの買って来ちゃった」
彼女は手から下げていた袋からヘルメットを取り出した。純白のアライだった。
「似合うかな」
慣れない手つきで、彼女は頭を押し込んだ。
「似合うよ」
僕は嬉しいくせに、クールを気取ってわざと興味なさそうにいうと、キャリアの上のザックを地面に落とした。もう使う事もないだろう。
「乗れよ。ラストランだ」
世界最大の単気筒は帰還の咆哮をあげた。日本に帰ってきて、コイツも嬉しいらしい。
「ねえ」
秋の陽射しが二人を照らしていた。タンデムシートに這い上がりながら、彼女は言った。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
僕の旅は、終わった。
・・・だったが、そんな美女が伏木で現れるアテも無かったし、実際に現れもしなかった。港にいたのは頭にハチマキを巻いた作業服のオヤジだった。彼はママチャリをこぎながら、僕に「税務署はこの奥〜♪」と歌うように教えてくれた。僕は「ありがとうございます」と頭を下げた。
・・・こんな会話では締めくくりにならないじゃないか!
とりあえず僕は自分の部屋に行くと(幸いにも実家にはまだ僕の部屋が残されている)、近しい人に電話をかけた。
あ、そうそう、原付で世界を回ったInternet
Jouneyの藤原寛一さん/浩子さんのところにも電話をしないと・・・と思って携帯にかけてみると・・・
「ごぶさたです。青山です。横浜に無事、着きました」
「あれ?横浜に帰っちゃったの?いや、明日、那須の高橋さん(ホンダ・ハンターカブで世界一周)のところと、明後日、宇都宮の中井さん(ホンダXLで世界一周)のところに行くから、青山君も富山から走って帰る途中に、どうかと思ってたんだ」
「あ・・・いや〜永原さんのところから一日で帰っちゃったんです」
「でも、関係ないじゃん。来ちゃいなよ、那須に」
「はあ?今日着いたばかりで、明日、那須ですか?」
「うん、関係ないじゃん。来ちゃいな、キチャイナ。那須なんか近いよ」
「はあ、じゃあ、伺います」(深く考えずに)
そして電話を切り、買ったばかりのロードマップを見てみると、うええ!那須って思ったよりも遠いじゃん!もう「みちのく」じゃないスか・・・。
そんなわけで、無事、横浜の実家に帰ったそのわずか17時間後、僕は那須に向けて旅立つこととなった。ただしDRの調子も良くないし、仮ナンバーのままなので、父の車を借りる事にした。寛一さんは「バイク見てえなあ」と言っていたけれど・・・。
したがって最終日、2002年9月19日の夜は、旅を振り返ることもゆっくり風呂に浸かることもなく、また数日間は家を空けるだろうから帰国報告のメール、電話連絡に追われた。日本で僕を待っていたのは、忙しい日常だった。
こうして1994年9月4日に始まった僕の世界一周ツーリングは、実質1033日間で終わった。走った距離はバイクで約83696キロ、車で約17200キロ。ふたつ合わせて、ざっと10万キロ。そのほか、バックパッカーとしての期間が約三ヵ月あった。パンク一回、離婚一回、恋した回数、国の数ほど。
そして、僕のこのつたないHPのアクセス数は約108000あった。最初こそ本当に少なかったが、最後の方はおかげさまで多い日で500ものアクセスがあった。
これだけの日記を毎日書く事は、正直いって大変だ。客観的に見て、こんなに日記を書くヤツはおかしいと自分でも思う。偏執狂で、ヘンタイだと思う。ライダーなのに、バイクに乗っている時間よりパソコンに向かっている時間の方がはるかに長いのだから・・・。
途中で「もう日記をやめたいなあ」と思うことは何度もあった。しかし、旅をやめたいなあ、もう疲れたなあ、と思う事もそれ以上にあったのだ。そして、その度に僕の頭に浮かんだのは「でも、ここで旅をやめたら、読者がどう思うだろうか。応援してくれた人に申し訳ないじゃないか」と、いうことだ。
批判、というより、アドバイスなのだが、「こんなホームページを作っているより、自分の旅をもっと楽しんだ方がいいんじゃないですか」というメールをもらったことがあった。
しかしその時、僕はアイデンティティに目覚めたのだ。
海外ライダーと一口にいっても、いろんなタイプがいる。オフロードバイクでアフリカをガンガン行く人もいれば、オンロードバイクでヨーロッパのワインディングを行きたい人もいる。仕事を辞め、何年もかけて世界を一周する人もいれば、夏休みにツアーで走る人もいる。
世界一周といっても、走る距離もハードさも、人によって全然違う。僕の世界一周は諸先輩方から比べると、かなりはしょった方だ。僕はDRが倒れたら一人で起こせないし、壊れたら直せないし、泥水をすすい、マラリアと格闘するタフさもない。今回の旅で、僕は自分がいかに弱い人間であるかを認識した。体力的にも、精神的にも。
では、僕の旅は何なのだろう。僕にしかできないツーリングとは?
そのメールをもらったとき、僕は途中から「旅の結果をHPにして伝える」のではなく、「HPをつくるため、日記を書くために旅をしている」という自分に気づいた。そして、それでいいと思った。そんな旅人、そんな旅があったっていいじゃないか。それが俺のスタイルなんだ、文句あっか?
このHPを作っていなければ、そしてそれを読んでいただける皆さんがいなかったら、僕はとっくのとうに旅を投げ出していただろう。
みなさんの応援なくして、僕はこの旅を果たせなかったでしょう。
久美子がいなくなったあと、ポカンと空いたタンデムシート。
だけど、そこに乗っていたのはこのHPの読者のみなさんです。
僕の世界一周は、みなさんの世界一周でもありました。
一緒に走ってくれて、本当にありがとう。
2002年9月19日 ゴールの横浜にて
|