旅の日記

日本編(2002年9月18〜19日)

2002年9月18日(水) 日本の地を踏む(Back in Japan)

 目が覚めると、すでに船窓からは陸地が見えていた。ただし近づいているのではなく、船は西に見える岸と平行に南下している。あれはきっと能登半島だろう。
 夜のうちに波はおさまり、航海はふたたび穏やかなものとなっていた。船上での最後の食事を終えて甲板にあがると、やがて前方に突き当たりの陸地と大きな港が見えてきた。
 工場や煙突が建ち並び、海の水は灰色に濁っている。お世辞にも美しいとはいえないが、あれこそが僕が1年半ぶりに日本の土を踏むところ、富山県伏木港。
 そう、僕は帰ってきたのだ。

 ミハエル・ショロホフ号は小さな河口に滑り込み、やがて何の変哲もない岸壁に身を寄せた。この船に往復切符で乗り込んだという日本人旅行者は、往路と接岸する場所が違うと言った。僕は、きっと空港のように大きな建物があって、そこで入国審査や税関審査が行われるものかと思っていたが、伏木港は予想以上に小さな港だった。20メートル向こうはもう普通の県道、さえぎるフェンスもない。
 手続きはどうするのかな、と思っていたら、入管や税関の職員が乗り込んできて船上でやるらしい。なるほどね。

 絶対数が少なく、また一人一人の時間もかからない日本人は優先され、文化交流で来たというロシア民族楽団のメンバーの次に手続きが行われた。
 それでも船が接岸してから小1時間は待ち、日本人の乗客は小言を言っていた。しかし彼らはパスポートに帰国のスタンプを押されれば、あとは高岡行きのローカル列車に乗るだけだ。僕は愛車DRを通関し、車検の切れている状態で横浜まで走るダンドリをつけなければならない。うまく事が運ばなければ一泊することになるかもしれないのだ。

 とりあえず僕自身の手続きは無事に終了。バイクの通関は港の奥にある税務署に行け、とのことなので、船を降りて歩いていく。ふうふう、日本は暑いなあ。
 ・・・あ〜!何気なく歩いているが、俺はもう日本の土を踏んでいるではないか!船から降り立つ瞬間は、それはそれは感慨無量だと思っていたのに・・・。
 まあ、いいか。まずはバイクを通関しなきゃ。

 税務署の2階で行われた通関作業は、ものの30分で終わってしまった。簡単な書類に記入し、カルネに「ちゃんとバイクを日本に持って帰って来たゾ」という証になる「所在地証明」のスタンプももらうだけ。費用はそのスタンプ代400円、印紙を買って支払う。
 笑ったのは、記入するときに職員が見本として見せてくれた最近の書類。「はい、これを見て書いてね」・・・あはは!「小梅和宏 車種:ヤマハXT600」って書いてある。その次のは・・・やっぱり得政さんのじゃないか!ホント、最後の最後までふたりのお世話になるなあ。

 結局、職員はバイクを見もしない。「通関」というスタンプの押された書類を持って船に戻り、車両デッキからバイクを岸に出す。やっぱり、この瞬間が「日本に帰ってきた!」と実感できる。
 まずは三脚を立てて記念撮影。愛すべき日本の土は、秋晴れの空の下、暖かかった・・・。(アスファルトなんだから当たり前だけど)

 さて、実はここまではスムーズに行くのは予想していた。問題はこの先だ。
 僕のDRの車検はとっくに切れているし、僕は日本のナンバープレートすら持っていないのだ。(海外ではアルファベットに直された国際ナンバープレートに付け替えていた)
 このまま走って帰ろうとすれば、一番近い高岡市の市役所に行って仮ナンバー(正式には臨時運行許可証というらしい)を借りなければならない。そして、そのためにはまず自賠責保険に加入しなければならないのだ。

 本当はバイクを港に置いて、公共の交通機関で手続きをしに行こうと思っていたが、船会社の社員も税務署の職員も、「こんなところに置きっぱなしにしていたら、まず間違いなく無くなりますよ」という。日本だからといって油断はできない。いろんな船が接岸しているので、フッと積みこまれてしまうというのだ。

 それじゃ国際ナンバーのまま港を出て、安全そうな場所に路上駐車か・・・と走り出すが、恐れていたとおり、いったん走りだすと停まるのが面倒くさくなる。結局国際ナンバーのまま、自賠責に加入できるという近くのガソリンスタンドまで違法走行してしまった。(良い子のみなさんは真似しないように!)

 僕はバイクの車検証を持っていないし、持っていてもどうせ有効期限が切れている。持っているのは神奈川の陸運局が発行した手書きの「国際登録証」のみ。しかし、それだけでも自賠責保険に加入できるのだ。
 僕が最近までそうだったように、スタンドのおばちゃんはそんなことを知らなかった(というより、国際登録証を見たこと自体、初めてだったと思う)。おばちゃんは奥に引っ込み、しばらくののち、ようやく保険証を持って帰ってきた。きっと方々に電話で問い合わせていたのだろう。
 ここで僕は2年の車検分をカバーしなければ、と思い、大枚をはたいて2年分加入した。しかし後になって考えてみれば、別に仮ナンバーで走行する期間だけでも良かったのだ。まあ、車検をすぐに取り直して日本でも乗るつもりだからいいけど。

 次は10キロほど離れた高岡市役所。ガソリンスタンドの店員はていねいに道順を教えてくれ、簡単な地図まで書いてくれた。そして「大丈夫、途中に警察はありません」と付け加えた。
 うーーむ!イチかバチか、このまま走っちゃおう!(良い子のみなさんはくれぐれも真似しないように!)
 海外の楽天的感覚で、高岡市内にある市役所まで違法走行。途中、交差点を曲がったら対向車がこっちの車線に突っ込んでくるではないか!どこ見てるんじゃ、ボケ!・・・あ、俺が右側走っているのか。やばいやばい。今、事故を起こしたらシャレにならないよ。

 高岡市役所の「交通対策課」で国際登録証、自賠責保険証書を見せ、そして750円の手数料を払って赤い斜線のついた仮ナンバーを借りる。これは車検の切れた車両を回送、または車検場まで走っていくときに使う物で、普通はこれをつけたまま長い距離は走らない。しかし特に規定はないので、有効期限の5日内なら、ルートを申請すればどこまででも走れるのだ。僕は申し込み用紙に「高岡→高山→松本→横浜」と記入した。

 無事に借りることができた仮ナンバーは、車用もバイク用もないから大きかった。ボルトの位置が合わないので、結局ザックと一緒にゴムのネットで固定した。これで合法的に横浜まで走って帰る事ができる。港からここまでは・・・ごめんなさい。

 高岡市役所の一階には「消費生活インターネットコーナー」というのがあり、「消費生活に関係あることなら」、30分間無料でインターネットが使える。どういう意味かイマイチわからんが、帰国一発目の飲み会に関するメールを送らなければならないので、拝借した。飲み会だって酒を立派に消費するのだ。それも、かなりね。
 それから近くの「ジャスコ」に行き、まず日本の道路地図を買った。僕はまさか旅の延長で日本を走ることになるとは思ってもいなかったから、地図を全く持っていないのだ。大体、高岡がどこなのかもよくわからん。・・・なるほど、こんなところにあるのね、ふんふん。

 上陸した瞬間からそう思ったけど、伏木、そして高岡はかなりの田舎、ディープなジャパンである。今まで海外というと飛行機ばかりだったので、帰りはまずインターナショナルな雰囲気の残る成田空港に降り立ち、そこからリムジンバスに乗ってT-CATへ。そしてサラリーマンとともに地下鉄に揺られる・・・という、「徐々に日本の日常に戻る方式」だった。
 しかし、今回はすごい。ロシア度100パーセントの船内から一歩足を踏み出したとたん、いきなりザ・ジャパン!もんぺ姿のおばあちゃんが腰を曲げて歩いていたり、農機具を乗せた軽トラックがパタパタ走っていたり、ジャージ姿の女子中学生が自転車をキコキコこいでいるのだ。「いきなりワープ方式」に、本当におとといまでロシアにいたのか、よく分からなくなってくる。
 日本人の俺がとまどうのだから、ロシア人が初めて伏木に降り立ったとき、彼らはどう感じるのだろうか?

 帰国一発目の食事は、ジャスコの一階にあるシケたスナックコーナーでカレーうどん。別に美味くもなければ不味くもない。久々のうどんだからって感動もしない。本当は魚のうまい富山で何かちゃんとしたものを食べたかったが、時間がないので仕方がない。
 もう時計は午後2時を回っていた。今日はこれから長野県佐久市まで走るのだ。

 高岡市から国道41号、471号と乗り継ぎ、乗鞍方面へ。そして安房峠を抜けて松本へ出る。日本でも有数の好ツーリング・ルートだけに、ライダーの姿も多い。こんなところを「ついでに」走れるなんて、俺はやっぱり果報者だ。ただし、残念なことに途中で日は落ち、景色は見えなくなった。
 ロシア極東地方と日本はほぼ同じ経度にあるが、時差はサマータイムもあって今は2時間もある。ウラジオストクは午後8時に暗くなるのに、日本ではそれが6時。いきなり日が短くなって、ちょっと寂しい。

 途中、ダンボールの板に「日本一周中!」とマジックで書き、荷物にくくりつけて走っている若そうなライダーを見た。話しかけて・・・
 「君は日本一周中なのかい?」
 「そうッス。オタクはどちらからですか?」
 「ふふふ、このナンバープレートを見たことがあるかい?」
 「あれー?なんスか、これ。見た事ないや」
 (ここで吸えないのにタバコに火をつけ、ケムリを吐く俺)
 「フーッ。ちょっと疲れちまったな・・・。実は今朝、ロシアから・・・(以後、自慢話)」
 という、嫌なヤツになろうかと思ったが、時間もないしな、と思っているうちにはぐれてしまった。俺も10年前はああして日本を走っていたな。(北海道でホクレンの黄色い旗立てたりして)

 峠をふたつ越えて、佐久に到着したのは午後8時ごろだった。予想外の寒さに体は冷え切り、新幹線の駅からかけた電話では「寒い!寒い!」と連発してしまった。僕は日本は暑いだろうと思って厚着をしないまま、夜の日本アルプスを走ってしまったのだ。(道路わきの電光板では、気温は12度と示されていた)
 さて、電話をかけて迎えに来てもらったのはNorthern Walkersの永原さんの奥さん、みどりさん。永原さんは僕のいない間に日本で結婚したが、僕は帰国一日目は彼らの愛の巣になだれ込む、という作戦を以前から練っていたのである。
 みどりさんと会うのは初めてだったが、夜勤の仕事をしている永原さんが区切りをつけて家に帰ってくるまで、彼女の手料理をごちそうになってロシア関係の話題で盛り上がった。永原さんと奥さんは来年からユーラシア〜アフリカの長期ツーリングに出る予定なのだ。

 永原さんが家に帰ってきたのは夜11時ごろだった。2年ぶりに会う彼は幸せ太りか、たくましく見えた。前は細かった印象があるのに。
 永原さんが仕事に戻る午前3時まで、僕たちは海外ツーリングの話や、近い将来本格的な活動に入るであろうWTC(ワールド・ツーリング・クラブ)の話をゆっくりとした。海外を走るライダーたちの情報交換や連絡を密にし、より旅を安全に、快適にするとともに、海外から日本を訪れるライダーたちを組織として支援するため(海外ライダーは誰しも、多かれ少なかれ現地のライダーにお世話になっている)、海外を走ったライダー、これから海外ツーリングを目指すライダーたちは一つにまとまりつつあるのだ。

 永原さんが仕事に戻ったあと、僕は畳の上に敷かれたふとんという、まさに清く正しいジャパニース就寝方式で眠りについた。
 ふとんの敷かれた部屋には海外ライダーが書いた本や、バイク関係の雑誌でいっぱいだった。永原さんといろんな話をし、こんな本に囲まれていると、僕の旅がこれから終わるという気がしない。


本日の走行距離        約250キロ(計83476キロ)

出費                  \18440  自賠責保険料
     \1633 ガソリン代
     \400 所在地証明手数料
     \750 仮ナンバー手数料
     \840 道路地図
     \504 カレーうどん
     \1200 有料道路
計     \23767 宿泊         永原さん家
インターネット    高岡市役所、永原さん家


2002年9月19日(木) ゴール?(Home Sweet Home)

 朝起きると、すでに永原さんは仕事から戻っていて、そしてみどりさんがこれから職場に向かうところだった。お二人は新婚だが、仕事の都合で一緒に過ごす時間は少ないという。だけど、来年からはずっと一緒にいられるねえ、永原さん。

 最終日も青空が広がっていた。考えてみれば、モンゴルを出てから一度も雨に降られていない。それまでは「これでもか」というくらい降られていたので、これでチャラになった感じだ。だけど、何事も終わりがいいというのは、いいなあ。
 永原さんと記念撮影してから出発する。また来月あたり、キャンプで会えるだろう。

 八ヶ岳を右手に見ながら、国道141号線を南下する。途中、温泉宿が無数にあって寄りたい気もするが、青空の下をトコトコ走っていると、このまま家に帰りたい気持ちの方が強くなった。なんか、「ゴール日和」という感じがするのだ。昨日もあんまり眠っていないので眠いし・・・。

 韮崎で中央自動車道にぶつかるが、海外の感覚だと日本の高速道路料金はもうべらぼうに高い。しかもバイクは軽自動車と同じ料金のうえ、二人乗りもできないのだ。軽自動車よりはるかに道路に与える影響は少ないのに、料金は同じで、しかも軽自動車は4人で料金を割れるのに、バイクは2等分することも許されない。こんなバカな話ってあるか?日本道路公団は、この一点に限ってもまともな理由を言えるのだろうか?
 そんなわけで、別に急ぐ理由もないので20号で東に進む。道は意外と空いていて、ちょうどいいペースで走れる。今のDRの状態じゃ、高速に乗ったって大して飛ばせやしないのだ。

 相模湖で右に折れ、津久井湖を経て国道16号へ。ここまで来ると、まわりは見慣れた景色ばかりだ。
 246号にぶつかってあと少し、というところでいきなりガソリンが切れた。相模湖のあたりでリザーブ・タンクに切り替わったのだが、家までは帰れるだろうとタカをくくっていたのだ。しかし、日本の道路事情が燃費に与える影響は予想よりも大きかった。
 エンジンが止まったのは長津田付近、時速80キロくらいで長い坂を下っている最中だった。惰性で行ける所まで行こうとそのまま進んでいくと、何と坂の下にガソリンスタンドがあった。結局、押す事もなく給油機の前にバイクをつけられた。最後の最後まで、なんてラッキーなんだろう・・・。

 そして青葉台で246を降り、環状4号線へ。いつものカーブを曲がり、交差点をホイと抜けると、友達が「サイコロハウス」と呼ぶ、わが青山家が見えた。
 階段の下にバイクを停め、父と母に迎えられて家に入る。ふえー、疲れたなあ。あっ、テレビ、テレビ・・・拉致問題で騒いでいるなあ・・・。
 はあ、今回のツーリングも楽しかったなあ。ちょっと疲れたけど、めでたし、めでたし。

 ・・・・・・・・・・??
 違う違う!違〜う!なんだ、なんなんだ、この日常的な感覚は。まるで国内ツーリングから帰ってきたみたいじゃないか!
 僕は実家にたどり着くとき、きっと感動に打ちひしがれるのだろうと思っていた。頭の中でファンファーレが鳴り響き、ロッキーのテーマが流れ、僕は涙を流しながらモンゴル相撲の勝利の舞いでもやりたくなるのだと思っていた。
 しかし・・・正直いうと、旅をしていた、あるいは旅が終わった、という感じが全くしない。したがって、達成感もゼロなのだ。

ここで重大発表です。
今まで僕の嘘に付き合ってくれてありがとう。
僕は本当は、ずっと日本にいました。
日記はすべてフィクションで、写真はすべて合成です。

 ・・・おいおい!読者のみなさん、本気にしないで。嘘ですよ、嘘、ちゃんと行ってたって。ただ、まるでそんなことを書きたくなるくらい、ゴールした実感がないのだ。
 ミハエル・ショロホフ号から日本の地を見たときも、それを踏んだときも「違う」と思った。きっと横浜に着いたときがゴールなのだろうと思っていたが、それも違うとなると、ううむ・・・?
 僕は、ずっと前からこの日記の締めくくりはどうなるのか考えていた。理想としては・・・

 港で船を降り、日本の土の感触を確かめていると、人の影が僕に落ちた。顔を上げると、懐かしい笑顔があった。旅先で出会った、あの娘だった。
 「バカだな、わざわざ来る事ないのに」
 「HPを見て今日の船だっていうから・・・そうそう、こんなの買って来ちゃった」
  彼女は手から下げていた袋からヘルメットを取り出した。純白のアライだった。
 「似合うかな」
 慣れない手つきで、彼女は頭を押し込んだ。
 「似合うよ」
 僕は嬉しいくせに、クールを気取ってわざと興味なさそうにいうと、キャリアの上のザックを地面に落とした。もう使う事もないだろう。
 「乗れよ。ラストランだ」
 世界最大の単気筒は帰還の咆哮をあげた。日本に帰ってきて、コイツも嬉しいらしい。
 「ねえ」
 秋の陽射しが二人を照らしていた。タンデムシートに這い上がりながら、彼女は言った。
 「おかえりなさい」
 「ああ、ただいま」
 僕の旅は、終わった。


 ・・・だったが、そんな美女が伏木で現れるアテも無かったし、実際に現れもしなかった。港にいたのは頭にハチマキを巻いた作業服のオヤジだった。彼はママチャリをこぎながら、僕に「税務署はこの奥〜♪」と歌うように教えてくれた。僕は「ありがとうございます」と頭を下げた。
 ・・・こんな会話では締めくくりにならないじゃないか!

 とりあえず僕は自分の部屋に行くと(幸いにも実家にはまだ僕の部屋が残されている)、近しい人に電話をかけた。
 あ、そうそう、原付で世界を回ったInternet Jouneyの藤原寛一さん/浩子さんのところにも電話をしないと・・・と思って携帯にかけてみると・・・
 「ごぶさたです。青山です。横浜に無事、着きました」
 「あれ?横浜に帰っちゃったの?いや、明日、那須の高橋さん(ホンダ・ハンターカブで世界一周)のところと、明後日、宇都宮の中井さん(ホンダXLで世界一周)のところに行くから、青山君も富山から走って帰る途中に、どうかと思ってたんだ」
 「あ・・・いや〜永原さんのところから一日で帰っちゃったんです」
 「でも、関係ないじゃん。来ちゃいなよ、那須に」
 「はあ?今日着いたばかりで、明日、那須ですか?」
 「うん、関係ないじゃん。来ちゃいな、キチャイナ。那須なんか近いよ」
 「はあ、じゃあ、伺います」(深く考えずに)

 そして電話を切り、買ったばかりのロードマップを見てみると、うええ!那須って思ったよりも遠いじゃん!もう「みちのく」じゃないスか・・・。
 そんなわけで、無事、横浜の実家に帰ったそのわずか17時間後、僕は那須に向けて旅立つこととなった。ただしDRの調子も良くないし、仮ナンバーのままなので、父の車を借りる事にした。寛一さんは「バイク見てえなあ」と言っていたけれど・・・。
 したがって最終日、2002年9月19日の夜は、旅を振り返ることもゆっくり風呂に浸かることもなく、また数日間は家を空けるだろうから帰国報告のメール、電話連絡に追われた。日本で僕を待っていたのは、忙しい日常だった。

 こうして1994年9月4日に始まった僕の世界一周ツーリングは、実質1033日間で終わった。走った距離はバイクで約83696キロ、車で約17200キロ。ふたつ合わせて、ざっと10万キロ。そのほか、バックパッカーとしての期間が約三ヵ月あった。パンク一回、離婚一回、恋した回数、国の数ほど。
 そして、僕のこのつたないHPのアクセス数は約108000あった。最初こそ本当に少なかったが、最後の方はおかげさまで多い日で500ものアクセスがあった。

 これだけの日記を毎日書く事は、正直いって大変だ。客観的に見て、こんなに日記を書くヤツはおかしいと自分でも思う。偏執狂で、ヘンタイだと思う。ライダーなのに、バイクに乗っている時間よりパソコンに向かっている時間の方がはるかに長いのだから・・・。
 途中で「もう日記をやめたいなあ」と思うことは何度もあった。しかし、旅をやめたいなあ、もう疲れたなあ、と思う事もそれ以上にあったのだ。そして、その度に僕の頭に浮かんだのは「でも、ここで旅をやめたら、読者がどう思うだろうか。応援してくれた人に申し訳ないじゃないか」と、いうことだ。

 批判、というより、アドバイスなのだが、「こんなホームページを作っているより、自分の旅をもっと楽しんだ方がいいんじゃないですか」というメールをもらったことがあった。
 しかしその時、僕はアイデンティティに目覚めたのだ。
 海外ライダーと一口にいっても、いろんなタイプがいる。オフロードバイクでアフリカをガンガン行く人もいれば、オンロードバイクでヨーロッパのワインディングを行きたい人もいる。仕事を辞め、何年もかけて世界を一周する人もいれば、夏休みにツアーで走る人もいる。
 世界一周といっても、走る距離もハードさも、人によって全然違う。僕の世界一周は諸先輩方から比べると、かなりはしょった方だ。僕はDRが倒れたら一人で起こせないし、壊れたら直せないし、泥水をすすい、マラリアと格闘するタフさもない。今回の旅で、僕は自分がいかに弱い人間であるかを認識した。体力的にも、精神的にも。

 では、僕の旅は何なのだろう。僕にしかできないツーリングとは?
 そのメールをもらったとき、僕は途中から「旅の結果をHPにして伝える」のではなく、「HPをつくるため、日記を書くために旅をしている」という自分に気づいた。そして、それでいいと思った。そんな旅人、そんな旅があったっていいじゃないか。それが俺のスタイルなんだ、文句あっか?
 このHPを作っていなければ、そしてそれを読んでいただける皆さんがいなかったら、僕はとっくのとうに旅を投げ出していただろう。


みなさんの応援なくして、僕はこの旅を果たせなかったでしょう。  
久美子がいなくなったあと、ポカンと空いたタンデムシート。
 だけど、そこに乗っていたのはこのHPの読者のみなさんです。
僕の世界一周は、みなさんの世界一周でもありました。
一緒に走ってくれて、本当にありがとう。

2002年9月19日 ゴールの横浜にて


本日の走行距離        約220キロ(計83696キロ)

出費                   \1000  ガソリン代
  \115 缶コーヒー
計     \1115 宿泊         青山家
インターネット    青山家